院長ヒストリー

アデランス?の幼少時代

アデランス?の幼少時代

1973年東京都荒川区に父正一、母香の次男といてとして誕生しました。兄弟は3才上の兄と2才下の妹、そして祖父、祖母との7人家族で、ごく普通の一般的な家庭で育ちました。
父の仕事は今では珍しく、日の丸や、ゼッケン、宣伝用ののぼり旗等の染色業を営んでおり、忙しい毎日でした。
そのため私は1才前後で第2南千住保育園に預けられてしまうのです。
当時は写真のように髪が薄く、3歳くらいまで生えてこなかったため兄弟や身内から「アデランス」という変なあだ名をつけられてしまいました。

すぐに迷子になる少年時代

すぐに迷子になる少年時代

保育園に通うころは、性格的にはおとなしく普通の子供でした。ただとにかく冒険好きで、保育園のお友達と、土曜の午後になると、遠くまで探検と称して散歩に出かけてしまい、夕方になっても帰宅せず、親を困らせる一面があったようです。
特に喧嘩をしたり、イタズラをするタイプではなかったのですが、家の中でじっとしているのが嫌いですぐに家から出かけてしまうことも多かったです。
夏に海水浴へ行くと、必ずと言ってよいくらい、迷子になり、場内アナウンスで親が呼び出されるのはあたり前でした。
最初はビックリしてた親も、小学校低学年くらいになると自分の子供が海で迷子になっても、まったく動じなくなりました。
そのころ私の楽しみは、年に1回親がスキー場へ連れていってくれることで、後に大学生になると、スキー部への入部に対して大きく影響したように思います。

虫歯星人の小学生時代

虫歯星人の小学生時代

このころは、少年野球にどっぷりつかっていた野球小僧でした。週末はリトルリーグの練習や試合、平日は学校が終わるとランドセルを放り投げ、近所のお友達と草野球に明けくれる毎日。
当然お気に入りのチームは読売ジャイアンツでしたが、一番あこがれた選手はなぜか当時ヤクルトスワローズの荒木大輔でした。
しかしこのころはおかし大好き、食べたら食べっ放しの虫歯星人でした。ある夜、右下の奥歯がもう烈に痛み出し、一睡もできずに、翌朝泣きながら歯科医院を受診したものです。もちろん学校は休んでしまい、担当医に怒られてしまいました。(笑)
だんだん、歯科医院に頻繁に通院するようになると、この年頃くらいから歯科医の仕事を意識するようになります。
小学校から中学校へ進む段階で日大一中を受験するのですが、失敗に終わり地元の中学へ通いました。中学生のころになると益々歯科医へのあこがれが明確になり、高校受験後は、日大豊山高校へ進学することになります。

超低空飛行の高校生時代

超低空飛行の高校生時代

もちろん日大は歯学部が2つ存在(松戸校と駿台校)するからというのが志望の動機です。
ただ残念なことに、志望校に合格したものの、高校の通学が始まると同時に、遊びほうけてしまう毎日であります。学校の成績も超低空飛行で、歯学部への入学は困難な状況になっていきます。
気付けば高校3年も半ばにさしかかってしまい、もはや絶対絶命という状況です。当時日本大学進学は付属生が受ける統一テストと呼ばれる、一発テストを乗りこえなければなりません。残された時間のない私は、一発逆転をねらいある作戦を立てました。
自分の受験科目(国語・英語・物理・数学)以外の授業は出席するものの、いっさい聞きませんでした。
つまり、歴史や科学など受験とは関係のない授業に、受験科目の教材を持ち込み、こっそり勉強し、時短をはかりました。
又統一テストは4択のマークシート、傾向と対策を調べると3択目の正解率が高いことがわかりました。
このデータの助けによりギリギリで日大松戸歯学部になんとか合格したのでした。(良い子は絶対まねしないでください。)

忍耐大学時代

忍耐大学時代

晴れて大学生となった私は、松戸校への通学が始まります。大学生といえばサークル。どのサークルに所属しようかワクワクしていました。
しかし、私はとんでもない大失敗をしてしまいます。スキーのサークルだと思って入った所属先が実は超体育会系のスキー部だったのです。
主な行動内容は、走りこみや、筋トレ、雪上ではポールを立てた競技スキーで、コンマ1秒を競うレーシングスキーでした。
しかも上下関係は大変厳しく、夏も雪をもとめて、富山県の立山で合宿を行うクラブです。何十回の退部を考えました。
しかし、人間とはももしろいもので、その集団の中で重要なポストをまかされると、次第にやりがいを感じ、あっという間に数年経過。
最後は主将をまかされるまでになりました。
このときに学んだことは「忍耐」であり、思い描いた学生生活とはかけはなれたものになりました。

灰色の作業時代

灰色の作業時代

スキー部で出会った先輩に導かれ、卒業後の場所を横浜に移し、歯科医としての修行の日々が始まりました。
卒業後の最初の5年は、まさに修行です。当時勤務していたクリニックの院長や先輩の厳しい指導のもと少しづづですが、歯科医らしくなっていきます。
しかし当時のことを振り返ると、「とにかく辛かった」「灰色」という思いしかうかびません。よく人生にムダはないと言いますが、学生のころ「忍耐」をたたきこまれ本当に良かったとこのころ痛感したものです。
卒業後、6年以降は院外で様々なセミナー、研修勉強会に参加するようになります。歯科医として自信がつきはじめると、色々なことに興味をもち、入れ歯、インプラント、ホワイトニング、矯正、etc…著名な先生方のテクニックを学ぶため、数えあげたらきりがありませんが、出稽古によく行きました。もちろんクリニックでの診療を通じて、診療に対する楽しさ、恐さをを辛さを日々学びながら、臨床家として11年目に栄区桂台にて開業を決意しました。

現在の横浜歯科クリニックの目標ですが、それは私自信長期にわたって、患者様とかかわっていけたらと考えているため、栄区や近隣の皆様の「健康と美を生涯にわたってサポートする」をモットーに診療して、考えております。
そのため近い将来訪問も行っていく予定であります。
又、クリニック全体の理念として、「診療を通じて人格を形成する」をかかげております。
当然私達にとって診療は仕事です。仕事とは生活のためでもありますが、人格形成のためでもあると思います。
この言葉を肝に命じて、日々診療に励んでいけたらと思っております。今後近隣の皆様との新しい出会いを楽しみにクリニックでお待ちしております。